映画版「トミー」について

サントラジャケット
映画版の概要

映画版では、オリジナル版と比べ、いろいろな改訂がなされている。
まず第一に、時代設定。
オリジナル版では、第一次大戦後の物語となっているが、映画では第二次大戦に変えられている。これについては後述する。

次に、キャストの役割が違っている。
オリジナル版では、殺す方が実の父(ウォーカー大尉)であり、殺されるのは母の愛人だ。映画では、これが逆転している。
これは、ストーリーを、より映画的に補強するためだと思われる。

映画では、三重苦になったトミーの心の旅を先導する存在として、父が描かれている。トミーにとって精神的に非常に重要な役割を持つ存在だ。これは、母の愛人(他人)より実の父の方が理に適っている。
また、最後に、トミー教団は金権体質に陥り、それで反感をかい崩壊するのだが、教団の金権体質をリードする役割として、母の愛人が存在する。いわば「汚れ役」を、義理の父に設定させているのだ。実の父では、ナマナマしすぎるからかもしれない。

また、曲順の移動も見られる。これも、映画のストーリー進行をより明確にするためだと思われる。さらには、映画用の新曲の追加だ。これも上記と同様、ストーリーを補強するために加えられたのだろう。

最後に、映画用のサントラは、ザ・フーだけでなく、ゲスト・ミュージシャンの顔ぶれも多彩だ。
映画に出演しているクラプトン、エルトン・ジョンはもちろん、フィル・チェン、アラン・ロス、ケニー・ジョーンズ、ニッキー・ホプキンス、ミック・ラルフスなど多士済々である。

映画の出演者およびスタッフ

トミー:ロジャー・ダルトリー
ナレーター:ピート・タウンゼント
ノラ・ウォーカー(母):アン・マーグレット
フランク・ホッブス(義父):オリバー・リード
いとこのケヴィン:ポール・ニクラス
アーニーおじさん:キース・ムーン
教祖:エリック・クラプトン
宣教師:アーサー・ブラウン
麻薬の女王:ティナ・ターナー
ピンボール・チャンプ:エルトン・ジョン
医者:ジャック・ニコルソン
**********************
制作:ロバート・スティグウッド&ケン・ラッセル
脚本:ケン・ラッセル
音楽監督:ピート・タウンゼント
監督:ケン・ラッセル


それでは、ここで、映画「トミー」サントラ盤の曲順を紹介しながら、オリジナル版との違い等を解説していこう。
タイトルは全曲、とりあえず日本語にしてみた。


01:序曲
「Overture」というタイトルだが、オリジナル版の「Overture」とは異なり、映画用のイントロとして新たに作られた曲。タウンゼントがシンセ、ドラムなどを多重録りしていると思われる。

02:ウォーカー大尉
これがオリジナル版でいうところの「Overture」である。

03:男の子
オリジナル版に補作詞されている。映画ではトミーの生まれた日は、イギリスの戦勝日とされており、その部分の歌詞が追加されている。

04:バーニーのホリディキャンプ
映画用に作られた新曲。
5歳になったトミーと母のノラは、ホリディキャンプに出かける。そこで母子はフランクというガイドの男と出会う。いつのまにかノラとフランクは愛し合う仲となり、トミーも彼らを祝福する。

05:1951 / あの子をどうしましょう?
オリジナル版でいうところの「You Didn't Hear It (1921)」。多少、補作詞があり、ブリッジの位置が変わっていたりする。さらに、オリジナル版よりも母が歌うパートが増やされている。
サントラでは、ミック・ラルフスのなかなかグッドなリードギターが聴ける。

06:驚嘆の旅
多少の歌詞の改訂がある。映画では、三重苦となったトミーの心の旅をガイドする存在として、殺された実の父があてられている。

07:クリスマス
映画では主に、母ノラが歌っている。

08:目の見えない人に光を
ソニー・ボーイ・ウィリアムスンの曲。オリジナル版では「行商人」という設定だが、映画では、「マリリン・モンロー教」の教祖となっている。演じるのはエリック・クラプトン!
なぜかサントラ盤には収録されていないが、映画では、3番をアーサー・ブラウンが歌っている。この曲から、トミーが子役からダルトリーに変わる。

09:麻薬の女王
映画では、ティナ・ターナーが凄い迫力で歌う。ケン・ラッセルの摩訶不思議な映像世界も垣間見られる。

10:大丈夫だと思っているの?その1
「Do You Think It's Alright?」を改訂して映画用に作られた曲。
いとこのケヴィンに、トミーを預けることに、ちょっと不安を感じる母。

11:いとこのケヴィン
オリジナル版とほぼ同じ。

12:大丈夫だと思っているの?
オリジナル版と同じ。

13:ばか騒ぎ
キース・ムーンが怪演するアーニーおじさんが楽しい。

14:大丈夫だと思っているの?その3
「Do You Think It's Alright?」を改訂して映画用に作られた曲。
トミーがずっと、鏡ばかり見ていることに不安を感じる母。大丈夫だろうよ、と取り合わない義父。

15:スパークス
確か、サントラでは、ほとんど唯一のザ・フーによる演奏。シンセが大々的に導入され、よりダイナミックに演奏される。
映画では、トミーが、鏡の中の自分、そして父に導かれ、初めてピンボールをプレイするシーンのバックに流れる。

16:号外!
オリジナル版の「奇跡の治癒(Miracle Cure)」の歌詞を変えたもの。
トミーがピンボールの試合で勝ち続け、おかげで家族が億万長者になったこと、次のゲームで、いよいよピンボール・チャンプ(=エルトン・ジョン)に挑戦することを伝える。

17:ピンボールの魔術師
エルトン・ジョンが迷(?)演を見せる、おそらく映画「トミー」で、もっとも人気のあるシーン。バックに揃ったザ・フーの面々が、例によってギターを投げたり壊したり、ドラムを蹴散らしたり・・・と、フーのファンならたまらないシーンだろう。
しかし、サントラで実際に演奏しているのは、当時のエルトン・ジョン・バンドの面々。従って、フーの演奏よりもポップ色が強い。これもウケた要因かも。
ところで、そもそも「ピンボールの魔術師」とはトミーのことを指しているはずなのだが、いつのまにか、相手(映画ではエルトン)のことを指すようになってしまっている。
例えばレーザーディスクの「Tommy New Live」の出演者クレジットでも、「ピンボールの魔術師=エルトン・ジョン」となっている。
どうしてなんだろう?

18:シャンパン
映画のための新作。
億万長者にはなったものの、トミーは相変わらず、見えず聞こえず、話せない状況。テレビに映る我が子の姿を見ながら、母ノラのストレスは高まっていく。母ノラ役のアン・マーグレットの「お色気」をたっぷり堪能させる、ケン・ラッセルならではの演出が見物。

19:医者が見つかった
オリジナル版通り。歌うのは義父役のオリバー・リード

20:鏡のところへ行きなさい
映画ではジャック・ニコルソンが医者を演じる。ニコルソンの、渋いけど危うい歌唱が聞き物。
オリジナル版にあった「Listening To You」のパートが削られている。それと、後半は、オリジナル版では父が歌う設定だが、映画では母が歌う。

21:トミー、聞こえるかい?
オリジナル版はメジャー調なのだが、映画ではマイナー調に変えられている。母の苦悩を浮き立たせるためだろう。

22:鏡を壊せ!
オリジナル版通り。アン・マーグレットの歌とソウルフルな演奏が、なかなか良い。

23:僕は自由だ
鏡にぶつけられ、割れたショックで、トミーはついに解放される。
オリジナル版ではもっと後の方に出てくるのだが、三重苦から解放されるシーンの曲となっている。

24:母と息子
映画のための新曲。
ついに解放されたトミーは、外界から閉ざされていた間に培われた純粋な精神を、人々に伝える決心をする。それを母に宣言し、母は彼に協力を約束する。
ちょっと近親相姦を思わせるようなシーン。

25:センセイション
歌詞の順番が変わっているが、ほぼオリジナル版通り。
あらゆる人が、トミーのフォロワーを目指すシーンで歌われる。

26:奇跡の治癒
オリジナル版と同じ

27:サリー・シンプソン
オリジナル版と多少、歌詞が変わっており、よりコンパクトにまとまった印象。サントラ盤ではクラプトンがギター。
ところで、サリーはカリフォルニア出身のロック・ミュージシャンと結婚する、という結末になっているのだが、そのロック・ミュージシャンというのが、フランケンシュタインのメイクをした子供で、テンガロンハットをかぶり、ラメ入りのギラギラの衣装姿で描かれている。イギリス人から見たら、アメリカ人ってこんなものなのかな(笑)

28:ようこそ!
オリジナル版に補作詞されている。補作詞の部分は、オリバー・リードが歌うパートで、「トミー、どんどんどんどん人がやって来るぞ!」という内容。それを受けてトミーが、「もっと部屋を作ろう・・・」と答える。

29:テレビ・スタジオ
映画用の新曲。
ついに「トミー教団」は、専用のテレビ局を持ち、世界各国に支所を開くようにまでなった。ここで、義父であるオリバー・リードの野望が語られる。

30:トミーのホリディキャンプ
オリジナル版に補作詞されている。補作詞の部分は、「トミーになりたかったら、トミーTシャツやトミー・レコードを買え」といったような内容で、「トミー教団」の拝金体質が明確に描かれる。信者達は、その姿勢に疑問を感じ始める。

31:俺たちは、ごめんだ!
オリジナル版に補作詞されている。補作詞の部分は、冒頭に歌われる信者達のつぶやきである。
内容は「あなたのようになりたくて来たのに、これは一体、どういうこと?」といった内容。
やがて暴徒となった信者たちは、母、義父まで殺害してしまう。

32:僕を見て 僕を感じて / あなたの声を聴けば
全てを失ったトミーはフラフラになりながら、一人、川をさかのぼり山を登っていく。その山はかつて、彼の母と実の父が愛し合った場所であった。やがて彼はそこで、本当の真理をみつけだす・・・という結末かな?
これもシンセやコーラスが大々的に導入されて、ダイナミックな演奏になっている。なかなか感動的なラストである。


あと、映画では、最後のタイトル・ロールの部分でも、「あなたの声を聴けば」が繰り返し演奏されている。


なぜ、第一次世界大戦か?

最初に記した通り、「トミー」の場合、ザ・フーによるオリジナル版では、トミーが活躍する時代については、第一次大戦後ということになっている。
しかし、映画では、トミーは「第二次世界大戦」のイギリスの戦勝日に生まれたことになっている。これは、単純に考えれば、映画では制作・公開時と「同時代性」を与えようということなのかもしれない。
70年代前半に制作されたこの映画では、1945年生まれとなった映画版の主人公トミーは、当時のロック・スター達とほぼ同年代であり、トミーの物語自体が、アップ・トゥ・デイトな意味合いを持ってくるからである。
暴徒と化す群衆は、ある意味で60年代後半の、学生運動などの反映として見ることができるからだ。

しかし、そう思えばそう思うほど、ふに落ちない点がでてくる。

では、なぜタウンゼントは、そもそもオリジナル版で、「第一次大戦後」という舞台設定を選んだのか、ということだ。上記のように考えれば、「トミー」オリジナル版が創られた60年代後半の方が、第二次世界大戦後の世界に対する問題提議を、ストレートに提出できたはずなのだ。

このような私の疑問に、ある種、解答を与えてくれたのが、今回の「トミー」の訳詞化を協力してくださっている(というか、「トミー」訳詞化を促進してくださった)オリバ・ハトオさんが、BBSに書き込んでくださった一言である。それは、こんな書き込みだ。

  最近読んだ本によりますと、日本人には実感しにくいことですが、
  ヨーロッパ人にとっては第二次世界大戦よりも第一次世界大戦
  の方が衝撃が大きかったそうです。それまで築き上げてきた
  ヨーロッパ文明が崩壊するような感覚を、当時の人々は
  味わったということです。

トミーは、第一次世界大戦の最中に生まれた設定である。「1921」の頃を5歳と考えれば、1915年、ないしは1916年生まれということになる。オリジナル版「トミー」の中では、明確に時系列の流れが描かれているわけではない(実は、一曲だけ、「アメージング・ジャーニーが「10歳の」と歌っている)が、仮に、三重苦から解放され、教団を築き、それが崩壊した年齢を20歳ころとすると、それは1935〜36年の出来事、ということになる。
ちなみに1935年といえば、ヒトラー率いるドイツが、ベルサイユ条約を破棄し、再軍備を宣言した年である。さらに36年には、ドイツ軍のラインラント進駐、ムソリーニ率いるイタリアのエチオピア侵攻があった年だ。つまりは、第二次大戦の「種子」がまかれた年代だといえる。

逆に考えれば、トミーが物心ついて、三重苦の青春を送る時代(ひいては、教団を作り、さらには崩壊する)というのは、まさにベルサイユ条約体制下そのものだといえよう。

ちなみに1920年代は、ヨーロッパにおいては、戦後の文化が爛熟する時代である。たとえばパリには、ピカソをはじめ有能なアーチスト達が集まり、モンパルナス辺りで夜な夜な騒いでいた頃だ(この時代の時代風景を垣間見るなら、映画「モダーンズ」や「ヘンリー&ジューン」がよい)。
また一方、アメリカでは「ローリング20's」「ジャズ・エイジ」の時代にあたり、これもまた、爛熟した文化を享受する時代となっている(ちなみに、この時代のアメリカの風景を垣間見るなら、映画「華麗なるギャツビー」がよかろう)。

そして、この「大平の夢」を打ち砕いたのが、1929年に始まる世界恐慌である。トミーが14〜15歳の頃の出来事だ。

ひょっとして、トミーとは「ヨーロッパ文明」そのものの象徴なのではないか? ベルサイユ体制による、一時の平和。しかし、その平和の影に、確実に次の暗雲が隠されていた時代・・・平和に浮かれていた時代は、まさに次代を「見ようともせず」「聞き耳をたてるわけでもなく」「危機感を訴えるわけでもない」状況で捉えれば、まさに「三重苦」だった時代と捉えることもできるのではないか(そう、ちょうど日本のバブル景気の時代のように)。

トミーは自分の純粋な精神を人々に伝えようとするが、周囲の思惑もあり、やがては信者達の反感をかい、崩壊してしまう。これは何か、本来「第一次大戦」による痛手を感じ、平和を希求しながら、結局は再び世界大戦になだれ込んでしまったヨーロッパ(というか人類)の様相、そのままではないだろうか。

そう考えるなら、「トミー」という物語は、タウンゼントが我々に提示した、奥の深い「現代史解釈」なのではないか、と思ってしまうのである。


「J.C.スーパースター」との関連

プロデューサーのスティッグウッドは、「Tommy」に先立ち、ノーマン・ジュイスンを使って、ティム・ライス&アンドリュー・ロイド・ウェッバー作の「ジーザス・クライスト・スーパースター(以下「J.C.S」と略す)」を制作している。
ちなみに、「J.C.S」も、欧米人にとっては定番の「イエス受難劇」と、ロックオペラという新しい表現形式を、映像の上でも一体化させた素晴らしい映画であったが。

私が随分昔に読んだ本からのうろ覚えだから、どこまでが正確か自信はないが、確か、スティッグウッドは、先に「Tommy」の映画化権を買い、次に「J.C.S」の映画化権を買ったそうである。しかし、実際に映画化された順番としては、「J.C.S」の方が早い。
これについては、スティッグウッドは「Tommy」の監督として、当初からケン・ラッセルしか考えておらず、ラッセルのスケジュールが空いていなかったため、先に「J.C.S」をジュイスンに撮らせたと読んだ記憶がある。

「Tommy」と「J.C.S.」に共通するものといえば、共にカリスマというかメシアの物語である点、そしてメシアを取り巻く人々が肥大し、突出し、やがて悲劇的結末を迎える、という点である。そういう意味で捉えれば、共に「受難劇」として位置づけることができるだろう。

「J.C.S」が他の「キリスト受難劇」と一線を画す点は、ロックミュージカルであることはもちろんだが、実はイエスの復活が描かれていないことだ。
「J.C.S」の最終シーンは、出演者がバスに乗り込み、イスラエルの砂漠を去ろうとする。マグダラのマリアやユダ(ユダは自殺したはずだ」などと野暮は言わないこと)もバスに乗り込むが、遠くの一点を見詰めている。その視線の先には、羊を追いながら夕陽の中に去っていくイエスの姿があった(それも、夕陽に溶け込み、いるのかいないのかわからないようなカメラワークとなっている)・・・という非常に余韻のある終わり方をしている。

ご存じの通り、「J.C.S」は、ブロードウェイをはじめ、世界各国で話題となった舞台がベースになっている。日本では劇団四季の十八番となっている。私は四季の舞台を2度ほど見ただけなので、絶対そうだとは断言できないが、イエスが去っていくシーンは、舞台版にはないはずだ。羊を追いながらイエスが一人去るのは、映画版で新たに加えられたものである。

この意図はなになのか。

「メシア自身の真の解放」ではないか、と思っている。

「J.C.S」が、その物語を通して描こうとしてるのは、周囲から「解放してくれる存在=メシア」として祭り上げられたことに対する、ごく普通の若者の苦悩である。
従って、映画のラストシーンは、仲間(?)とは離れ、ただ一人、野を行くイエスを描くことで、その苦悩からのイエス自身の解放を象徴的に描いたものだったといえるだろう。
実は「J.C.S」は、舞台化された時に、一部のキリスト教団体などからイエスを貶めるものとして激しい攻撃を受けており、穿った見方をすれば、象徴的に終わらざるを得なかったのかもしれない。

そして、言うまでもなく、メシアと奉られた人間の真の解放を、明確に描いたのが「Tommy」だったわけである。

スティッグウッドの意図としては、どうもこの2作品は、ひとつの流れの中で捉えた方がよいのかもしれない。
「Tommy」のオリジナル版では、確かに「トミー=ニュー・メシア」として歌詞の中でも表現されているが、「宗教教団の教祖」的なニュアンスは、あまり濃くない。映画では、その部分が増強されているように思えるのだ。

映画版「Tommy」の「俺たちは、ごめんだ!」と歌いながらトミーや母、義父に襲いかかる群衆は、まさに、「イエス受難劇」(当然、「J.C.S」も含め)における、ピラトの裁判で、「我々の王はシーザー、イエスを磔刑に!」と叫ぶ群衆に酷似している。

「Tommy」もまた、「受難劇」として、ストーリーが強化されているのだ。

イエスが、自分の運命を受け入れるのは、最後の晩餐の後、一人、ゲッゼマネの園に登り、神と対話してからである。「J.C.S」でのゲッゼマネのシーンを見ていると、「Tommy」のあるシーンを連想せずにはいられない。
それは、最後の方のシーン。暴徒と化した信者たちに破壊され尽くした教団から、一人脱出し、川を溯り、山を登っていくシーンである。

「J.C.S」のゲッゼマネのシーンでは、イエスは「私は知りたいだけなんです いつ死ぬのですか? どうして死ななければならないのですか?」と、神を問い詰めながら登っていく。
「Tommy」では、「あなたに耳を傾けたら 音楽が聞こえる あなたから私は物語を得る」というようなことを歌い、そして新しい希望に包まれるのである。

両者は、「悟り」(私の考えでは「自己解放」ということになるが)へのプロセスが異なっているものの、結論はよく似ている。

プロセスの違いというのは、イエスが、「神との対話」で自分の運命を受け入れるのに対し、トミーは信者の造反と破壊から、新しい自分の運命を受け入れるという筋道の違いである。
イエスはだから、悟りの後、さんざん彼を称えていた信者達が「我々の王はシーザー、奴を十字架に!」と叫んでも、もうたじろがない。
トミーは、信者達が「俺達はもう、ごめんだ!」と叫ぶ姿に驚愕する(映画では、そのような表情で描かれている)。

「J.C.S」は従来の受難劇と異なり、人間としてイエスを描こうとしているから、ここでいう「神」というのは、どちらかというと「自分の自分自身の内なる声」と考えた方が、ストーリー的に矛盾がない。
当然、トミーには「神の存在」など描かれていないから、彼が最後に言う「あなた」とは、自己の中の新しい自分としか考えられない。

スティッグウッドが、「J.C.S」「Tommy」という順番で二つのロック・オペラを映画化したのは、ラッセルのスケジュールの都合というばかりでではなく、「受難劇を、神懸かりではなく、真の人間の物語」とする、という意図があったのではないか、と思う。

つまりは「J.C.S」で描き切れなかった(描くのがはばかられた)部分を、「Tommy」で具現化する、ということだ。