| インデックス | はじめに |
| 第一章 | Taneyの第一稿 「『狂気』解題」 |
| 第二章 | 今井さんからの最初のメール(抄訳) |
| 第三章 | Taneyから今井さんへのメール・その1 |
| 第四章 | 今井さんからのメール・その2 |
| 第五章 | Taneyから今井さんへのメール・その2 |
| 第六章 | 今井さんからのメール・その3 |
| 第七章 | Taneyから今井さんへのメール・その3 |
そもそも、このページは、「『狂気』解題」というタイトルで、99年の夏にアップした。その目的は、「The Dark Side of The Moon」についての私なり考えを、簡単にまとめ、みなさんに読んでいただくためだった。それ以上の思惑はなかったし、それ以下のものでもなかった。というより、私の「雑感」など、たいがい無視されるだろうと思っていたのだ。
しかも、言ってはなんだが、たかが「ロック・ミュージックのアルバム・コンセプト」についてだ。
悲しいかな、私の周囲でも「楽しく聴けりゃ、それでいいんだ」という考え方が多い。余談になるが、これまでの人生で「詞って、そんなに重要なのか?」という人にも会った。それはそれで、良いのだとは思う。その人が納得しさえすれば。ところが、ある日、私に「嬉しい」メールが届いた。ピンク・フロイド研究家として名高い今井壮之助さんよりのメールだった。
そこから(今井さんにはご迷惑だったろうが、私にとっては極めて刺激的な)、「狂気」および「ザ・ウォール」についてのメールを介した「ディスカッション」が始まったのである。そして、このディスカッションは、未だなお、継続中である。
私は決して、「このコンセプトがわからなければ、『狂気』や『ザ・ウォール』を聴く資格はない」などと言うつもりはない。「詞なんてどうでもいいじゃないか」「気持ち良く聴けたらそれでいい」という楽しみ方もいいだろう。でも、我々(今井さんや私)のような楽しみ方もあっていいと思う。
それ以上に思うのは、これは一種のゲームである、ということだ。
フロイド、というよりロジャー・ウォーターズが投げかける問いを楽しむ、一種のパズル・ゲームのようなものではないだろうか。
「そんなものは、ウゼ〜」という方は、読む必要がない。ただ、せっかくだからウォーターズの「企み」に乗ってみるか、という気持ちが少しでもある方は、ちょっと読んでみていただきたい。そして、よろしかったら、議論を吹っかけていただきたい。
「考える」という人間だけの特権を、もっと楽しもうではないか。
最後に、付け加えておきたいことが三点ほど。
まず、このタイトルは「フロイド『狂気』論」となっている。しかし、読めばわかるが、「THE DARK SIDE OF THE MOON」だけを取り上げた内容ではない。
最初にも書いた通り、この稿はそもそもは「『狂気』解題」として始めたものである。その時は、「THE DARK SIDE OF THE MOON」についての一文だった。しかし、今井さんとメールを繰り返して行くうちに、内容が「THE DARK SIDE OF THE MOON」だけには収まらなくなってきた。具体的に言えば「THE WALL」についての記述が増えてきたのである。従って、このタイトルである「『狂気』論」とは、一般に世間でいわれるところの「狂気」を、フロイドはどう描き出しているか、という問題に、力点が移っている。その点を、ご理解いただきたい。
第二として、この稿を作る(継続中なので、作っている、と言った方が正しいが)上においての今井さんのご尽力についてである。私の中味の薄いメールに、忍耐強く付き合ってくださり、しかも討論(?)をリードしてくださっているのは、今井さんである。
今井さんがいらっしゃらなければ、この稿は存在さえしないだろう。メール転載を許可してくださったことも含め、あらためてこのページを借りて、深く感謝したい。最後に、これを読んでくださるあなたに。
これは、そもそも、ちゃんとした掲載用の原稿として書いた文章ではなく、メールのやり取りを、ほぼそのまま掲載したものである。
従って、論点が「行きつ戻りつ」しているところが、多々ある。特に、日を置いて書いたものなど、前の内容をちょっと忘れて返答しているものも、あったりする。読まれる上で、ちょっと回りくどい印象を与えるかもしれない。
整理し直して、新たに文章を書き起こしたほうが、はるかに分かり良い文章になるだろうとは思ったのだが、あえて、メールならではのニュアンスを伝えたくて、ほぼ原文のまま掲載した。読みにくさについての全ての責は、そのような方針を採ったTaneyにあることを、最後に明記しておきたい。
(2000年5月20日記す)●今井さんのサイト「PINK FLOYD Fancyscope」も、ぜひご覧ください。
月は、およそ29日を周期に、その姿を変貌させていく。「新月」「三日月」「半月」「満月」あるいは「十六夜」や「十五夜」なども、月の”姿”にまつわる言葉である。月の姿の変貌の周期は、そのまま、今の我々の「ひと月」といった言葉の中に生きている。
月は、姿を変える。しかし、「月の本質」は変わっているのか? 答えるまでもないだろう。「月」という本質には、何も変わりがない。いってしまえば、宇宙のどこにでもあるような、球体の星である。そして、「球体」は、立方体などと異なり、たったひとつの「面」しかもたない、唯一の存在なのだ。月が姿を変えるのは、太陽光線の「当たり具合」であったり、地球の影の「映り具合」でしかなく、月そのものにとっては、全くあずかり知らぬことでしかない。なぜなら、月が変貌する姿は、地球上から見えるだけのものでしかなく、月にとっては、自分の姿が地球人にどう映っているかなどは、どうでもいいことなのかもしれないからだ。
ひょっとすると、月は、地球人が勝手に「満月だ」「三日月だ」と言っていることさえ、バカらしく思っているのかもしれない。ピンク・フロイドは、そんな月の有り方をテーマに、「狂気」という世界を描いた。なぜ、「THE DARK SIDE OF THE MOON」が「狂気」であらねばならないのか?
普通に暮らしている人は、「狂気の世界」などというものを、自分とは全く異なった次元のものであると思っている。自分の周りを見てみよう。たとえば隣の人、たとえば会社や学校で机を並べている人・・・いったい、自分とどこが違うのか。おそらく、多くの人にとっては、変わったものではないと感じているはずだ。だから、自分は普通なのだと確信している。もっと突っ込んで言うなら、自分は「マトモで、ごく正常な人間」だと思い、安心しているはずだ。
しかし、本当にそれで正しいのか?
20世紀にキャッチフレーズを付けるとすると、私は迷わず「世界戦争の世紀」と名づけるだろう。この50余年、戦争から遠ざかっている日本人にはわかりにくいかもしれないが、実はこの50余年のうち、何がしかの「紛争」や「戦闘」に関与しなかった国は世界中で、日本を含め、2、3しかない(はずだ)。
なぜ、人間は、戦争を行うのか。もちろん、戦争を遂行する側にとっては、いつもそれらしい、しかも眉唾な理由がある。いちいち挙げる気はないが、かつては宗教だったり、あるいは一方的な正義だったり・・・。
日本は、すでに戦争から遠く離れたといっても、わずか半世紀ばかりのものでしかない。あの時、国を挙げて、日本は戦争に突入した。そして、そんな国は、今でも、地球上に数多くある。かつて日本で「非国民」という言葉が、よく使われていた。日本の戦争遂行に批判的な人などを、そうやって非難していたのだ。つい隣の人や、同僚が、戦争を嫌う「アナタ」のことを、「非国民」といってさげすむ時代・・・。
日本とともに、敗戦国となったドイツでは、ヒトラーやファシズムの台頭を、みんな諸手を挙げて歓迎した。そんな時代があったのだ。社会の「善」とか「悪」とか、いったい何なんだ?
言うまでもなく、戦時下では、反戦、厭戦は「悪」であり、自分の命が無くなるまで敵を殲滅することが「善」なのだ。
「社会通念」という基準が、常に正しく、「正気」の道を歩んでいるわけではないことがわかるだろう。そして、それこそが、フロイドの描く「狂気」の本質なのである。たったひとつしかない「月の面」が、たまたま影になっているかそうでないかだけで、「三日月」だとか「満月」だとか、まるで異なった存在であるかのように扱われるのと同様、「狂気」も、我々が「正常」とか「正気」とかいって安穏としているものが、実は我々が「狂気の世界」として、まるで別の次元のものとして扱っているものと、本質的には同じである、ということに気づくべきである。
「狂気」は、つまり、どこにでもあるのだ。ほら、あなたの・・・
私が上記のような文章を「狂気解題」として掲示していたら、今井壮之助さんより、メールを頂戴した。今井さんは、私の考えに理解をお示しになりつつ、さらにご自身の考えも加え、アドバイスしてくださった。
今井さんからのメールをかいつまんで紹介したい。(1)欧米人にとって月=狂気というのは当たり前の連想だと思われる。
(2)世間では「月の裏側=狂気の世界」というのが常識化しているが、月それ自身が狂気だとすれば、月の裏側=狂気の裏側となるべきだと考えられる。
(3)日食になると、月の裏側はこうこうと陽の光を浴び、その逆に地球(正気)は真っ暗になる。神話と深層心理学では、月は回復と再生の象徴で、日食のたびにその影を捨てるからだ。今井さんのご指摘は、今にして思えばまさに当然であった。「月(ルナ)」と「狂気(ルナティック)」の関連を考えても、月そのものが「狂気」の象徴であるのはもっともである。
恥ずかしながら私はすっかり「失念」して、単に「暗い=狂気」「明るい=正気」などという能天気な二元論に陥っていたのである。私は、しばらく時間をおいてから、今井さんに、もう一度、自分の考えをまとめた(というものの、実はまとまっていないが)メールを送らせていただいた。
「月の暗い側」について、ここ数ヶ月、いろいろと考えていました。
もちろん、文献を読むわけでもなく、自分の頭の中だけなので、的を得たものかどうかは、さっぱりわからないんですが。 その中で、ちょっと思ったことがあります。少し述べさせていただきたいと思います。お時間取らせますがご容赦ください。まず、実はずっと漠然と思っていた疑問が、またフツフツと蘇ってきました。なにかというと・・・
「月の暗い側」=「月の裏側」という解釈があります。私もそうかと思います。
「side」とあるので、そうかとも思うのですが、本当に「裏側」なんでしょうか。三日月の時、月はもちろん「三日月」状のカタチを見せるわけなんですが、その時、「月の表面」=「地球から見える面」の 約3/4ほどが暗くなっているわけですね。その3/4ほどは、「月の暗い側」には、あたらないのか?という疑問です。
「裏」ばかりではないのではないか、という疑問です。よく、「満月は人を狂わせる」といった迷信が存在します。狼男は、満月の夜に、野獣に変身します。また、名前は忘れましたが、満月に殺人を起こしていたシリアル・キラーがいたように思います。
満月に殺人や事件が多い、というレポートもあったようです。(ただし、「と学会」によると、これは全くの捏造であるようですが、 何となく、「満月は人を狂わせる」というと、みんな納得することの方が、重要なテーマかと思われます)
「満月」は、もちろん月の表側が、全部、地球から見える状態で、「暗い側」は0%状態なわけですよね。つまり、「Dark Side Of The Moon」を「月の裏側」と取らず、「光が当たっていない部分」と取ると、そうなります。で、「Dark Side of The Moon」比率(?)が少ない方が、実は「狂気」度合いが高い、ということになるのではないか、と。
「新月」は、月が見えない状態で、いってしまえば真っ暗闇。本能寺の変も、新月の時(6月1日)だったそうですけど、 直感的には、魑魅魍魎が跋扈しそうな夜ですが、「月」=「狂気」という図式を考えると、実は、この真っ暗闇ほど、正常な夜はないのか、とも思ってしまうんですよね。
今井さんが書かれていたように、新月は「新生」というか「転生」への前段階であって、決して「不吉」ではないのか・・・と。話は変わりますが、「狂気」という概念について。
「正常」と思い込んでいる一般人にとって、「狂人」あるいはそのたぐいの人というのは、二つの側面があるような気が します。ひとつは、いうまでもなく、狂暴さにおける「狂人」です。
それは、「秩序」の破壊者としての「狂人」です。建前という約束事を守らない、無法者です。社会から「害虫」視され、存在自体が排除されるような存在です。
例えば、オウム真理教のような事件や、神戸の事件のような、理解を超えることが起こると、人は「狂気の沙汰」といいます。犯人を「狂人」とすることで、「一般人」の常識の範囲を守ろうとします。そんな時に使われる「狂人」。
ただし、この場合の「狂人」というレッテルは、常にコトが起こってからのものです。
「常軌を逸したことを起こした=狂人である」になっても「狂人である=常軌を逸した事件を起こす」という「逆もまた真なり」には、決してなりません。もうひとつの「狂人」は、フェリーニの映画「道」のジェルソミーナに代表されるような、「純真無垢」な存在としての「狂人」です。
一般人が、「社会の約束事」というシガラミの中で失った「良心」とか「実は正しい精神」を持ち、だからこそ社会から阻害される存在としての「狂人」です。「Brain Damage」の1番に「野菊の輪を作って遊ぶ」というフレーズが出てきます。
これは「Remembering game」と歌われているので、決して現在形ではなく、過去のことを表しているのでしょうが、「狂人」の持つ「純真無垢」性を象徴しているものと思われます。つまり、我々の「俗」に対する狂人の「聖」性ですね。一方、その2番の歌詞では、狂人は「毎日、四つ折りにされ新聞少年が配りにくる」という歌詞です。
これは単純に捉えるなら、前者(つまり暴力的破壊者としての狂人)が、何か、例えばオウムのような事件を起こした、というより、世間にあふれる事件が、狂気じみているという隠喩とも捉えられるのではないかと思います。「Brain Damage」の狂人は、「聖」と「破壊」の二面性を有しているのでしょうか。
3番の歌詞の中に「you」として出てくる者がいますが、それは狂人ではないのでしょうか。それとも「マトモ」な人?
あるいは「マトモ」を装った「狂人」でしょうか。
「you」は、この歌の主人公を、ナイフで「正気になるまで切り刻む」のですが、結局この「you」に対して「月の暗い側で会いましょう」という歌詞があるので、決して「狂人」のことを言っているのではないと思うのです。
すると「マトモ」な人か、あるいは「マトモ」を装う狂人ということになります。ところで、私は、今、ここまで書いて、ようやく気づいたことがあるのですが、一体、「太陽」は、このアルバムでは、何なんでしょうか?
「狂気」というアルバムの中で「太陽」について言及されているのは「タイム」と、「エクリプス」の最後のフレーズ。
しかし、月を明るく照らすのも、月に侵食されるのも、けっきょくは「太陽」という存在があってこそですよね。「エクリプス」の最後の行では、主語は「月」ではなく、つまり「月は太陽を侵食する」という能動態ではなく、「太陽」が主語で、「太陽は月に侵食されていく」と受動態になっています。
「タイム」では、太陽を追いかけて走ることそのものを、人の人生の始まりから終わりに、なぞらえているようです。つまり、「時間」を支配するものは、太陽であるかのような。
う〜ん、ここまで書いてきて、また、混乱してしまいました。
長々とメールをお出ししながら、中途半端な内容で終わって 申し訳ありません。
このメール後、今井さんから、ご返事をいただいた。
ここは重要なポイントが含まれているので、ほぼ全文を掲載する。
「Dark Side of the Moon」についてのご意見、とてもよかったです。特に後半の2つの狂気のタイプ論は、HPにあった「THE DARK SIDE OF THE MOON 解題」を読んで私が物足りないと感じた面を完全にフォローされていました。さて、「月の暗い側」か「月の裏側」かですが、私はあまり考えてもいませんでした。というのは、私の解釈「Dark Side of The Moon=無意識の比喩」スタンスではどちらでもいいからです。でもここでは私の解釈を脇に置いて、検討してみましょう。
確かに満ち欠けによって“暗い側”の面積は変化しますね。つまりフロイドが指し示す部分が絶対的に固定されているのではなく、何らかの状況による流動的なものであると。時には全体を覆い尽くすものであると。一方、“裏側”は永遠にこちらから見えない、いつも同じ面積で。
フロイド自身の意図はどうなんでしょうか、というか、欧米人はどっちを? 辞書を調べてみて、英語的にも両方を連想するのではないかと予想しました。和英辞典からは「月の裏側」として4つも書き方があるんですね。
The Other Side of the Moon
The Hidden Side of the Moon
The Far Side of the Moon
The Dark Side of The Moon
(辞典には「look on the dark side of things =物事の暗黒面を見る」ともあり、観念上の隠れた暗い側には「dark side」です。)あちらの面、隠れた面、届かない側、暗い側……という言い回しです。しかしこれは多根井さんが問題にされる「満ち欠けによって面積が変化する“暗い側”」の意味ではないですね。
では逆にその「満ち欠けによってたまたま暗くなっている部分」を英語ではどう表すのかといったら、Dark Sideしかないでしょう。となれば「Dark Side of The Moon」を英語的にはどちらも連想するのではないか、となります。
そして「月の裏側」ではなく「月の暗い側」とすれば、「何らかの状況による流動的なもの」でしたが、「エクリプス」という日蝕がこの“何らかの状況”を引き起こし、全月面を暗黒面に変えるわけで……、「暗い側」説が正しいということになりますね。しかし最初に言ったように、私の「Dark Side of The Moon=無意識の比喩」という解釈では“Hidden Side of the Moon”に近く「無意識=見えない側」ですから、「暗い側」も「裏側」も大差ないということになります。
> 3番の歌詞の中に「you」として出てくる者がいますが、それは狂人ではな
> いのでしょうか。それとも「マトモ」な人?
> あるいは「マトモ」を装った「狂人」でしょうか。「Brain Damage」の“you”は自ら訳そうとした日本人なら誰でもひっかかる箇所だと思いますし、私も放棄してしまいました。英語では特定の相手がいない場合(漠然とした他者)にも“you”を使うし、命令形にも使います。ここでは狂人かも知れないし、主人公の頭の中の他者、または聞き手かも知れません。「月の暗い側で会いましょう」も私でしたら「まだ見ぬ冥い無意識で別の自己を見いだすだろう」と“you”を曖昧にします。
> ところで、私は、今、ここまで書いて、ようやく気づいたことがあるので
> すが、一体、「太陽」は、このアルバムでは、何なんでしょうか?『狂気』において「太陽」は何か? これはピンク・フロイドにおけるウォーターズにとっての「太陽」とは何か?という命題に至るはずです。ウォーターズのフロイドは「太陽讃歌」で始まり「トゥー・サンズ・イン・ザ・サンセット」で終わったように、太陽を追求した歴史と言ってもいいんじゃないでしょうか。ピンク・フロイド究極のシンボルだと思います――狂気や壁よりも。「月」なんてそのための対立物のペアでしょう。
実体には影があり、その影を語ることは実体それ自身を語るための一つの方法でしょう。ではフロイドの「太陽」とは何か?となるわけですが、この世の絶対的真実みたいなものなので、簡単には語れないでしょう。安易に語れないからこそシンボル化するわけで……と、逃げるみたいですが。私のウェブ・サイトのロゴは「アンブラ・シャドウ/Umbra Shadow」というフォントを多用していますが、umbraというのは天文用語で「月蝕の時に太陽の光がまったく当たらない地球・月の影の部分」という意味です。アンブラ・シャドウは立体化された影だけで文字として成り立っていて、本来の文字の部分が透明で存在しないようデザインされています。それでいて人は文字として識別してしまうのです。前述の「満ち欠けによって面積が変化する“暗い側”」はこの「The Umbra of The Moon」が妥当かも知れません。
このアンブラ・シャドウがフロイドの光と影、正気と狂気などを暗に説明するかなと、私はロゴに使いました。
私は「トゥー・サンズ・イン・ザ・サンセット」を一般に言われているような核爆発によるホロコーストだと思えないので、この「太陽シンボリズム」としていつか意見をまとめたいと思っています。
アンブラ・シャドウの書体例
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今井さんのメールを受けて、さらに私がメールを送らせていただいた。そのほぼ全文>この聖なる狂気に徹底して向き合ったのが「狂ったダイアモンド」ですね。
>破壊の狂気はむしろ『アニマルズ』であり『ザ・ウォール』でしょうか。する
>と「Brain Damage」は二つの狂気の分岐点というか、二面性を見い出した瞬間
>ですね。ということから、「ザ・ウォール」の破壊の狂気についてつれずれなるままに考えていたのです。
少し長くなるかもしれませんが、お付き合いいただけるでしょうか?最初に思ったのは、我々はごく一般的に、「狂気」という概念の対立概念として「正気」を考えてしまいます。
「月の暗い側」におても、私も「狂気」「正気」という捉え方を、例えば「月の明るい側」と「暗い側」というふうに、漠然と捉えていました。その考え方で、「ザ・ウォール」を見てみると、主人公のピンクは、破壊の狂気を具現化していく存在として描かれているといってもいいでしょう。
では、ピンクの狂気に対する「正気」は、あの物語の中に用意されているのか、といえば、一見したところ、見当たらないのです。ピンク以外の登場人物といえば、家庭での女房のヒステリーの鬱憤を、子供ではらしているかのような教師であったり、子供のピンクに異常なほどの愛情を注ぐ母であったり、他の男に走ったピンクの女房であったり、なんでも金で解決し、ピンクをステージに引っ張り出すことしか考えないようなマネージャーであったり・・・と、誰もが「狂性」を抱えた人間かのように描かれているようです。
その象徴として「ウジ虫裁判長」が存在するのでしょう。ピンク自身の「狂気」は、彼らによって増幅されるのですが、重要なのは、おそらくピンクを取りまく、そんな人々が自分のことを、決して「狂気」であるとは思っていないことです。
そして一番の極め付きは、ピンクの「狂気」を何でも無批判に受け入れて喜んでいる、一般聴衆ということになるのでしょうか。
「集団狂気」ですね。「狂人」のひとつの捉え方として「社会生活不適合者」という基準を考えてみると、おそらくピンク以外の登場人物は、決して「社会生活不適合者」などではありません。しかし、その中に、しっかりと「狂気」のタネは隠されている、と・・・。
社会「適合」者が抱える、少しずつの「狂気」が、ピンクという主人公の中で増幅されていくのが、「ザ・ウォール」の基本構造であるとすれば、この物語の中で、「狂気」の対立概念として提出されているのは、じつは「ピンク自身」なのではないか、と思うのです。
では、「狂気」の対立概念としての「ピンク」を表現すれば、何になるのか、と考えると、私はそれは「無垢」ではないか、と思うのです。
「狂気」←→「無垢」、
この場合の「狂気」、つまりピンク以外の登場人物が抱える狂気の根元が、どこにあるのかといえば、「打算」だと思います。 「打算」から最も遠いところにあるのが、「無垢」ですよね。
つまり「聖なる狂気」ということになります。極論すれば「狂気」←→「正気」という表面的な二元論の奥には、実は「打算」←→「無垢」という構図があるような気がしてきたのです。
これは「打算が狂気で、無垢が正気」といった単純な公式ではなく、時には「打算が正気で、無垢が狂気」となったりもします。
まさに、月に映り込んだ影のように、面積を変えたり、場所を変えたりするのではないか・・・と。「ザ・ウォール」は、ピンクの幼年時代・少年時代を執拗に描きます。物語として登場人物の精神の成り立ちを描くのはもっともだとしても、私は昔から、物語の本論からすれば、少し描きすぎではないかと思っていました。
少年時代の描写に比べたら、妻が浮気しピンクが孤立するエピソードなどは、非常に薄いように思っていたのですが、今「無垢」という概念を思い浮かべた時、子供時代の描写はまさに、的を得たものとなったのです。
映画の最終シーンである、子供が火炎ビンのガソリンを捨てるシーンも、納得できるものになったのです。この考えに立って、もう一度「Brain Damage」を見てみると、非常に気になる一節が浮かび上がってきました。
「君は刃物をかざし
変革しようとする
僕が正気になるまで
僕を並び替えようとする」という一節です。
「正気になることを迫られる状態」というのは、実は非常に「狂的」であります。
「ザ・ウォール」の中に描かれる主人公ピンクの状況は、 まさにここにあります。ところで、
>アンブラ・シャドウは立体化された影だけで文字として成り立っていて、
>本来の文字の部分が透明で存在しないようデザインされています。
>それでいて人は文字として識別してしまうのです。なるほど、そうですね、やはり「正気」と「狂気」と同様、単純な対立概念ではありませんね。
まさに、印象派以前の絵画が、光を描くためにどんどん影を強調していったように。ちょうどレンブラントの絵のように。思わず、クリムゾンの「Night Watch(=夜警)」を思い出してしまいました。それと、ジョニ・ミッチェルの「Shadows And Light」も思い出したりして・・・
歌詞は・・・あらゆる光景は 影を持ち
(Every picture has its shadows)
そして 光の源を持つ
(And it has some source of light)(余談。ジョニの「シャドウズ&ライト」の日本版ライナーの訳詞は確か、「全ての光景には影がある そして影は光の源になる」とされてますけど、誤訳ですね。相変わらず、質が悪いなぁ)
・・・ですね。ジョニはこの歌で、「影」には複数形の「s」をつけ、「光」は単数形にしています。これは光というのはひとつであるのに対し、影はさまざまに現れる・・・時に姿を変え、時に別の場所に現れ・・・ということだそうです。
あ、いかん。フロイドから離れてしまってすいません。例によって、まとまりのないメールになってしまって、申し訳ありません。
「THE DARK SIDE OF THE MOON 解題」から『ザ・ウォール』に脱線しますが、よろしいでしょうか。> 「ザ・ウォール」は、ピンクの幼年時代・少年時代を執拗に描きます。物
> 語として登場人物の精神の成り立ちを描くのはもっともだとしても、私は
> 昔から、物語の本論からすれば、少し描きすぎではないかと思っていまし
> た。多根井さんは「子供時代の描写が過剰だ、青年期が希薄だ」と思ったようですが、私は逆でした(笑)。『ザ・ウォール』の子供時代の描写、そしてそこから「無垢」という概念――多根井さんの考え、すべて的中だと思います。というか、ウォーターズはそうは言っていなくても、少なくとも私のフロイド観にぴったり来ます。
それは『ザ・ウォール』だけじゃないんです、子供時代にこだわるのは。大切な何かを語る時、そしてそれを失った現在を語る時、ウォーターズは必ず子供時代を持ってくるのです。幼い頃はお金への欲望はなかったのに社会があおった、とか。「狂ったダイアモンド」がその極みです。
なぜなのかは私にはみえみえなんです。独断ですが、私には極論としてその地平線に「胎児」が見えているのです。だから子供時代にこだわるのであり、お金への欲望がなかった「胎児」が彼方に浮かび上がってくるのです。当然それは多根井さんの「無垢」という概念と重なってきます。でもそれはいゆる天使のような無垢でなく、
> 「打算」から最も遠いところにあるのが、「無垢」ですよね。
> つまり「聖なる狂気」ということになります。> 時には「打算が正気で、無垢が狂気」となったりもします。
という無垢です。でも「無垢」の対語として「打算」という言葉はどうもぴんとこないという印象を受けました。何か別の言葉はないでしょうか。大人の獲得するもの(と同時にそれによって「無垢」が捨て去られる)ですね。この議論の中からいい言葉が見つかるかも。
> では、ピンクの狂気に対する「正気」は、あの物語の中に用意されている
> のか、といえば、一見したところ、見当たらないのです。> では、「狂気」の対立概念としての「ピンク」を表現すれば、何になるの
> か、と考えると、私はそれは「無垢」ではないか、と思うのです。その通りですね。ピンク以外の登場人物=社会適合者が意地悪く描かれていて、この辺は被害妄想者の視点そのものです。『ザ・ウォール』とはピンクの妄想の産物であって、登場人物全員がピンク自身の葛藤から出てきたものと思います。ウォーターズも「裁判の原告は自分自身、自分で自分を告訴した」と言ってました。
そして「トライアル」がアルバムを要約しているのですが、それぞれの証言は“それまでのあらすじ”でしかないのですが、重要なのは最初の原告と最後の判決です。あの皮肉たっぷりで意味曖昧な判決にピンクのしでかした“犯罪”が語られています、human nature/人間性つまり「無垢」をあらわにしたという。社会適合者とは人間性をひたかくす(仮面で)存在として描かれています。ですから、
> 時には「打算が正気で、無垢が狂気」となったりもします。
が来るわけですね。「無垢」が商売として成り立つのが芸術家でしょう。実際、そんなウォーターズの聖域に近付こうとするある種の相手には、彼は激しく抵抗します。その相手こそがショービジネスの「打算」でしょう。また、シド・バレットの「無垢」を犯した相手が何か、それをウォーターズは『狂気』の成功ではじめて痛感したのかも知れません。打算と無垢という対立概念は「狂ったダイアモンド」の歌詞にありありと歌われていますね。
この辺は『Is There Anybody Out There?』のウォーターズの記述に書かれているみたいですが、輸入盤しか手元にないので対訳を読みたいところです。とかくピンク・フロイドを解析しようとすると、どうしても「はたしてロジャー・ウォーターズはどっちの意味だろうか?」とか、「ウォーターズの意図から脇道へそれていないだろうか」と悩むものです。でも、脇道は彼は歓迎すると思います。曖昧な多義的な暗示を投げ掛けて、それをもとに人々が議論していくことを望んでいるのであり、その過程または結論のどこかでウォーターズの思考とちらっと接触すればいいのです。
最初の「狂気解題」はやや脇道にずれたという感じがしましたが、あれはあれでいいのだと私が言った理由がそれです。次に、方向を修正したようですが、本論に近付いたという感じがしました。本論なんて勝手なことを言いますが、今井個人の解釈上の本論にすぎませんし、私の本論・結論がウォーターズの意図と一致するとは限らないんですね。
全く別の映画とか何かで“狂気”が描かれていて、「あっ、フロイドの言わんとするのはこれだ!」と悟るのもいいでしょう。最近の新潟の監禁事件なんか、完璧な『ザ・ウォール』日本版でした。母親がかなり過保護だったとか、父親が死んでいないとか、テレビばかり見ていた……なんてね。
ご返事、ありがとうございます。
私もいろいろ、寄り道だの道草しながら、考えていきたいと思います。
ところで、「打算」について、さすが今井さん、という感じで、痛いところを衝かれたという気持ちです。
実は私も「打算」という言葉には、ちょっと満足はしていなかったのですが、ごまかしは通用しなかったですね。では、「打算」という以外に何があるか--ちょっと考えてみます。またまた長文になりそうです。いつもすいません。
「The Wall」には、いくつかキーワード的な言葉が出てきます。
代表的なのは、言うまでもなく「壁」です。これはテーマそのものですので、キーワードとは言えないかもしれません。もうひとつのキーワードは「仮面」とでもいいましょうか。
「In The Flesh」や「Run Like Hell」の中では「disguise」という単語で表現されていますので「装飾」とか「虚飾」と取ることもできるかもしれませんが、映画では、目と口がくり貫かれた無表情な仮面が随所で登場するので「仮面」と言い切ってもいいと思います(そう言えば、「Wall Live」では仮面を着けた代理バンドが出てきていましたし、「ITAOT?」のジャケットはまさに仮面のシンボライズですよね)。
仮面については、またの機会に考えたいと思います。もうひとつ、私が気になるキーワード(キーフレーズ?)は、全編の中に何度か出てくる「Ooooo baby(Babe)」というフレーズです。これが結構、クセもののフレーズのような気がしています。
このフレーズが最初に出てくるのは「Thin Ice」で、赤ん坊の先行きの不安さを予感させるかのように歌われています。
次に出てくるのが「Mother」で、ここでは一転して、主人公の母のセリフとして、彼女の尋常ではない過度の愛を象徴するかのように歌われます。次に歌われているのは「Don't Leave Me Now」です。前の2曲が、主人公に対して歌われているのと異なり、ここでは「Babe」の対象が、彼の妻に変わります。
同様に、妻に宛ててこのフレーズが使われているのは「Nobody Home」ですね。「Baby(Babe)」には、文字どおり「赤ちゃん」という意味と、「愛しい人」という意味の二つがあり、「Don't〜」では、後者の意味として、妻に向かって歌われているわけで、これはたまたま歌詞上、偶然、そうなったと捉えることができるかもしれませんが、(例によって寄り道して考えると)私は、どうも意図的に、この歌詞を置いているような気がしてならないのです。
というのも、「The Trial」の中で、妻がピンクを糾弾している時に、それを遮るように、母が出てくるのですが、その時「Babe !」と叫びながら母が登場するからです。ピンクにとっての二人の存在(というより、二人に代表される人間の有り方、かな)をブリッジしているのが「Baby(Babe)」でないかと思ったわけです。
しかも単なる「Baby」ではなくて「Ooooooh, Baby」ですからね、感情の深さが尋常じゃないような気がします。
で、母が言う「baby」と、妻に向けた「babe」に共通項を見出すとすれば、それは一方的で「過剰」な思い、ということになるのでしょう。別の言い方をすれば、「過剰」な思いを伝えるシンボルとして「Baby(Babe)」という単語が機能しているように考えるのです。
私が前回のメールで、単純に「打算」と言い切ってしまったのは、実は「過剰さ」ではないかと思います。
ああ、また長くなってしまいました。すいません。続きは後日申し訳ありません。
文責:Taney It's A Gass !